
来月の頭に大阪に行く。まほろばくんの母ちゃんと姉ちゃんに挨拶する予定。別に結婚じゃないし、たとえば結婚であっても、そう大袈裟に場を持つ必要があるとは考えていないんだけど、向こうの親御さんが心配する気持ちはわかるから少しでも安心してくれれば。でも、逆に心配にならないかと思うと、身構えてしまう。それはノンケと一緒か…。カミングアウトはよほど大切な人にしかしちゃいけないと俺は考えているけど、壊したくない関係であればあるほど、大切な人にカミングアウトすることは難しい。だからと言って、どうでもいい人にするどうでもいいカミングアウトほど虚しいものはない。一緒に暮らすと決めたことで俺はまほろばくんに大切なカミングアウトを無理強いしてなければいいが。自分が自分の親に周りに言いにくいことを1つ預けてしまったということを、カミングアウトして7年経つ今、余計に感じる。認められるってなんだろう。たくさんじゃなくていい大切なことを抱きしめて。

こういうことは「事故」にようなものかもしれない。無防備なときに予告なしに訪れる。
今日、市内の公園で友達と缶コーヒーを飲みながら、弾き語りを冷やかしていると突然目の前に大学時代の友人が現れた。
通り過ぎるようなかんじだった。でも、オレは目が合った。少なくともオレは彼の目ん玉が見えた。
その目は怒っていた。世間や社会に対してなのか、公園に群がる夏祭りの群衆に対してなのか、でもその目こそが彼らしさなのだ。
いまから10年前、通信制の高校を経たオレにとって、全日制の私大に行くことは大きな不安だった。
「いまからまた普通のひとに混ざる」と意識してしまうと身がすくんだ。
そこで一番親しくなったのが彼だった。
初めて人の家に泊まったり、初めて人に自分の書いた詩を読んでもらったり、そしてそれに絵を描いてもらった。
彼がコードに合わせて作った曲はやけに明るくてポップで青い空を小鳥が飛ぶような歌詞ばかりだった。
でも、その反対側に闇があった。
オレは最後までその闇がなんなのかわからなかった。
わかりあうなんてキレイごとだけれど、それはたしかに広がっていた。
そして、ある日オレはそれに触れてしまう。
「自分だけがツライと思うなよ」大学構内でワンパンチで吹っ飛んだオレに彼が吐いた言葉は正しくて正しくて今もオレのなかで生きている。
そのとき以来やめていた伊達メガネを今日オレは久しぶりにかけていた。
ケンカをしてもケンカをしても仲直りしてきた。
だからこそ、これ以上ゲイを偽って付き合うのは苦しい。
コップから水が溢れるような気持ちで口をついて言葉は出た。
「いや、話したい…こと…あってさ」
「なんよ」
「え、いや…」
「ん?なんだよ今さら」
「オレ、ゲイ…なんだよね」
「え…お前、男好きなん?」
「うん」
「うえ。気持ちわる。じゃあ友だち終わりだね」
「あ」
3年間の仲を簡単に壊したこのやり取りを時々思い返す。
どこかに問題がなかったのか。どうにかならなかったのか。
彼が電話をきったとき、実はオレは数日経てば連絡があるような気がしていた。
それぐらいあっけなかったから。あっけなすぎて理解できなかったから。
母親、友達にカミングアウトして受け入れてもらって、いい気になっていたオレのカミングアウトはこの後一切なくなった。
ノンケの友達と本気で付き合うこともやめてしまった。
だから、いま周りにノンケの友達がいるのが不思議な気持ちにすらなる。
それでもカミングアウトはやはりこわい。
最近、少し親しくなれそうなノンケの友達がいるのだけれど、帰り道にどんどん億劫になった。
手ぶらだったなあ…髪長かったなあ…なにしてんだ?こんな時間に。
いろんなことが思い浮かぶから意識的にもみ消していく。
それでも、思う。
ゲイだけがツライわけじゃない。
傷ついた瞳が投げる想いがいまもくすぶっているように。揺れる肩をただ見ていた。
「そういうのに偏見ないよオレ」高3の夏、1時間近くかかって自分の体験を相談すると、予備校の友だちはそう言ってくれた。言ってくれたのにオレは。オレは「いや。ちがう。オレはゲイじゃない」と言った。否定した。自分がゲイじゃなかったら、どこがどう変わってるんだろう。ファミレスの家族連れを見てもなにも感じなかったオレでも、結婚した兄貴が子どもを2人連れて帰省するとすこしは考える。オレたち同じ家に育ったんだよな?親にカミングアウトしてからは、加齢とともにホモフォビアの思考は減っている。自分がゲイであることに悩んでるひとを見かけたら、「自分を否定しないで」と言うけれど、オレ自身にも嫌悪のカケラは残ってる。そして、そんな自分がいやになる。いろんな場所にいろんなひとがいていろんなことをしてる。認めてあげるなら、まず最初に自分を認めてあげたい。