日本で一瞬流行したスウェディッシュ・ポップとは?
Lie Lie Lie(OST

僕が高校生のときに、スウェディッシュ・ポップというものが流行りました。
軽くて聴きやすいためにJ-POPと相性がいいのか、日本でのセールスは特に良かったです。
そのため、ブームの火付け役となったトーレ・ヨハンソンは小室哲哉ではありませんが、数多くの日本人をプロデュースしました。
BONNIE PINKや、カジヒデキ、つじあやの、原田知世から、ル・クプル、レミオロメンに至るまで実にさまざまです。

BONNIE PINK

Chasing Hope(初回限定盤)

大学の学園祭で弾き語りで歌っていたところをスカウトされ、歌謡曲アルバムを作ってデビューしたものの、煮詰まっていたBONNIE PINKでした。
そんな彼女の歌を聴いたトーレ・ヨハンソンがプロデュースを申し出ます。
髪を真っ赤に染めて、ファースト・アルバムのイメージを払拭します。
このシングルは彼女のターニング・ポイントとなるスマッシュヒットを記録します。
その勢いで作ったアルバムが大ヒット。
そして、スウェーデンにこもって続けて3枚目のアルバムを作るのですが、その時点でネタ切れしていた彼女は大いに病みます。
私はかっこいい音楽を作らないといけないという呪縛に取り憑かれてしまったようでした。
その音楽活動への不安をそのままアルバムに閉じ込めた恐ろしく暗いアルバムにセカンド・アルバムで得た多くのファンは逃げてしまいました。
彼女は自信を完全に失い、トーレ・ヨハンソンともサヨナラします。

その後、今度は髪を金髪に染めて、ニューヨークに旅立ちます。
ピアノでの作曲を辞めて、ギターに転身し、必死に新しいアルバムを作りますが、このアルバムがとにかく難解な内容でさらに人気を失くします。
その後、日本に帰国し、やっと何か吹っ切れたようにトーレ・ヨハンソンや日本人のアーティストととにかく淡々と地道に作品をリリースします。
気取った音楽からわかりやすい音楽へ徐々にシフトするにつれ、セールスは少しずつ上がっていきました。
地道な活動の中で獲得したCMソングのタイアップで「Perfect Sky」が大ヒットします。
その後は、主にトーレ・ヨハンソンの弟子と一緒にわかりやすいJ-POPを作っています。

オリジナル曲はかなり多く、常に楽曲を作り続ける勤勉な人です。
僕は初期のかっこつけたBONNIE PINKがきっかけで好きになっているので、やはり昔の曲のほうが好きです。
しかし、彼女の長い苦行の歴史を知っていると、そんなに批判する気にはなれません。

Heaven’s Kitchen
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原田知世

music & me

BONNIE PINKに続けとばかりに、トーレ・ヨハンソンのプロデュースでシングル、アルバムをリリースした80年代アイドル原田知世。
一体年齢がいくつなのか当時からすでに年齢不詳でした。
この「ロマンス」そこそこスマッシュヒットしてしまいます。
ブームとはそういうものです。
そして、原田知世はスウェディッシュ・ポップの流行が落ち着き、次にポストロックが流行すると北欧バンドのムームにプロデュースをしてもらいます。
その後、ポストロックの流行が落ち着き、今度はシティ・ポップが流行するとシティ・ポップの達人、高橋幸宏がプロデュースするバンドのヴォーカルになります。
なんてふてぶてしい女なんでしょう?
カフェオレだけしとけよ?という言いたくはなりますが、彼女のアルバムは毎作クオリティが高いので(当たり前か。)必ず聴いています。

I could be free
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2 comments

  1. >BONNIE PINKに続けとばかりに、トーレ・ヨハンソンのプロデュースでシングル、アルバムをリリースした80年代アイドル原田知世。

    BONNIE PINK
    1996年9月20日 Do You Crash?
    原田知世
    1996年4月19日 100 LOVE-LETTERS(スズキアルトエポCMソング)

    トーレ・ヨハンソンが日本人アーティストをプロデュースしたのは原田知世が先なんですね。

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